まち中で触れる中国文化

Chinese culture in Nagasaki

華僑たちにより創建された寺院

唐寺

江戸幕府が成立したころ、長崎に在留していた華僑たちは、悟真寺の墓地に葬られていました。
しかし、禁教令が敷かれると、在留華僑たちは浄土宗である悟真寺を菩提寺にすることができなくなってしまいます。危険な航海を経て日本にやってきた華僑たちは、海の守護神「媽祖(まそ)」を祀ること、そしてなによりも自分たちがキリスト教徒でないことを証明するために、華僑独自の菩提寺を自分たちで創建する必要がありました。
元和6年(1620)、南京などの江蘇省および浙江省出身の華僑たちの菩提寺として、興福寺が創建されます。開山は真円。真円は商人として来日していましたが、出家して住持となりました。
寛永6年(1629)には福建省の福州の華僑が中心となって崇福寺が創建され、超然を住持として迎えました。
このように長崎華僑たちは出身地ごとに集まり寺院を創建し、その結びつきをより強固なものにしていったのです。

東明山 興福寺(黄檗宗)

寺町通りに建つ朱色の山門が印象的な「興福寺」は、わが国最初の唐寺で日本黄檗宗(おうばくしゅう)発祥の地で、元和6年(1620)、中国の南京地方出身者が、真円(しんえん)を開基として媽姐堂・仏殿を建てたので、南京寺とも呼ばれます。

興福寺大雄宝殿

国指定重要文化財

寛永9年(1632)、第2代住職・黙子如定(もくすにょじょう)は本堂である大雄宝殿(だいおうほうでん)を建立するものちに大火で消失、元禄2年(1689)に再建されるも、慶応元年(1869)暴風のため大破し、さらに明治16年(1883)に再建し現在に至ります。
ほとんどが中国工匠による純粋の中国建築で、資材も中国より運送したもの。内装、外装ともに中国明清風をとりいれ、柱や梁には、人物、鳥獣、花が彫刻され、とくに、氷裂式組子の丸窓、アーチ型の黄檗天井、大棟上の瓢瓶など珍しい意匠もみられます。中国南方建築の代表作とされ、現在は国重要文化財に指定されています。

旧唐人屋敷門

国指定重要文化財

長崎に来航する唐人による密貿易の増加を問題視した幕府は、元禄2年(1689)唐人屋敷をつくり、来日した唐人たちは、ここに居住させられることとなります。壁で囲まれた敷地には住宅・店舗・祠堂などが軒を連ね一市街地が形成されましたが、その後数度の火災があり、天明4年(1784)の大火では、関帝堂を残し他は悉く焼失、以後は唐人自前の建築も許されました。
この門は天明大火以後の唐人住宅門と思われ、用材は中国特産の広葉杉(こうようざん)で、 建築様式も中国式特有のものであり、扉は二重で、内門は貴人来臨専用となっています。
旧唐人屋敷内にこの唐人住宅門だけが民家の通用門として遺存していたのを、 昭和35年(1960)、保存のため中国にゆかりの深い興福寺境内に移築されました。

東明山 興福寺 インフォメーション

所在地

〒850-0906 長崎県長崎市寺町4番32号

電話番号

095-822-1076

拝観料

大人300円/中高生200円/小学生100円

アクセス

【路面電車】長崎駅前から3番系統「蛍茶屋」行で「市役所」下車、徒歩約8分
【路線バス】長崎県営バス「長崎市役所」下車、徒歩約8分

聖寿山 崇福寺(黄檗宗)

福州地方の唐人たちの希望で、寛永9年(1629)に渡来した唐僧超然により創建された崇福寺は福州寺とも呼ばれ、竜宮門を思わせる三門や珍異奇巧を極めている第一峰門があります。殿堂内の仏像仏具類は、中国人名匠の手によるもので、明朝末期文化の縮図といえるものです。

崇福寺第一峰門

国 宝

中国寧波で材を切組み、元禄8年(1695)唐船数隻に分載され舶来、再建されたもので、軒下の構造組物に特徴があり、四手先三葉栱(よてさきさんようきょう)と呼ばれる複雑巧緻な詰組は他には例がなく、華南地方にも稀といわれます。軒下軒裏には極彩色の吉祥模様を施し、雨がかり部分は朱丹一色塗にしてあります。
当初はここが山門でしたが、のちに下段西向きに、新たに三門が建立されて、ここは二の門となりました。

崇福寺大雄宝殿

国 宝

釈迦(大雄)を本尊とする崇福寺の大雄宝殿は、中国で切組み唐船で運び正保3年(1646)上梁建立されました。当初は単層屋根(たんそうやね)でしたが、35~6年後の延宝天和の頃、外観重層を付加し現在の姿となりました。下層部分は軒回りの逆凝宝珠束(ぎゃくぎぼしづか)の持送りや、前廊部分が俗に黄檗天井と呼ばれるアーチ型の天井であるなど、中国建築様式であるのに対して、上層部の建築細部様式は和様を基調とし、しかも両者は違和感なく調和しています。

崇福寺三門(楼門)

国指定重要文化財

寺院の外門で中央と左右に門戸のあるものを三門といいます。
中国工匠が建てた中国建築の諸殿堂門が多い崇福寺の中でも最も中国趣味の濃厚なこの門は、実は棟梁大串五郎平以下、すべて日本人工匠の手によるもので、今では崇福寺の象徴となっています。
以前にあった山門が火災風災で滅失倒壊したあと、嘉永2年(1849)に上梁再建されました。その見た目から龍宮門と呼ばれています。

崇福寺三塔

市指定史跡

崇福寺の後山にある三基の大きく立派な墓塔です。
中央の塔が、 唐僧隠元禅師の弟子であった即非禅師が師の髪をいただいて納めた隠元の寿塔(生存中に造る墓)で、寛文9年(1669)に建立されました。向かって右の塔は、 寛文11年(1671)に即非禅師が56歳で示寂したとき火葬に付して得た遺骨の半分を埋めた即非禅師舎利塔、向かって左の塔は、元禄6年(1693)唐僧玉岡や和僧の江外たちが、師の千呆のために造った千呆の寿塔です。

聖寿山 崇福寺 インフォメーション

所在地

〒850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町7-5

電話番号

095-823-2645

拝観料

大人300円/高校生以下無料
※障害者手帳の提示で本人および介助者無料

アクセス

【路面電車】長崎駅前から1番系統「崇福寺」行で「崇福寺」下車、徒歩約3分

写真提供:(一社)長崎県観光連盟