元禄時代、日本の鎖国政策のなかで唯一海外交流の窓口だった長崎。中国との貿易が盛んに行われた江戸時代、オランダ人の住む出島と同様に、中国人についても居留地が設けられました。居留地は唐人屋敷(唐館)と呼ばれ、総面積約9,360坪、役人詰め所や大門、二の門、住宅、市場、関帝廟、土神堂、観音堂などがあり、高い練塀をめぐらせ、出入りは出島と同様厳しい制約がありましたが、中国人たちの出入りは比較的自由でした。当時市内に在住していた中国人は1万人ともいわれ、同じ時期の長崎市の人口が6万人でしたから、たいへんな数の中国人でした。 寛政4年(1792)頃の円山応挙作といわれる長崎港の鳥瞰図。左下に塀で囲われた唐人屋敷と海上の新地蔵所が描かれている(長崎歴史文化博物館収蔵) また、貿易でもたらされた中国船からの積荷は、五島町や大黒町の海岸の荷蔵に納めていましたが、1698年の大火で荷蔵が喪失します。そこで、二度とこのようなことが起きないようにと、唐人屋敷前面の海面3,500坪を埋め立てて隔離された荷物倉所を造りました。この場所は新しくできた場所、という意味で、「新地」や「新地蔵所」と呼ばれました。明治維新後、唐人屋敷とともに新地蔵所も廃止となりました。長崎華僑たちは港に近い新地蔵所跡地に移り住み、長崎独特の中国人街を作っていったのです。 新地中華街の象徴、街を見守る四神が棲む門 中華街の四方にそびえる色鮮やかな中華門は、新地中華街商店街振興組合の人たちが横浜・神戸と並ぶ中華街に発展するよう願いを込めて、本場中国福州市から資材を取り寄せ、職人を招いて築造したものです。東、北、南門は高さ、幅とも9メートル。西門は高さ9メートル幅4メートル、屋根瓦は中国製。昭和61年4月に完成しました。門の裏側には東門では青龍、西門は白虎、北門は玄武(亀と蛇)、南門は朱雀と門を守る神が彫られており、各門は正確に東西南北を示す方角に位置しています。これは、古代中国の地相占い風水に基づくものです。銅座川に面する北の玄武門は水を呼び込むとされ、湊公園へと開かれた南の朱雀門は火を呼び込むとされています。そして鬼門の北東には、華僑の菩堤寺である崇福寺があり、邪気を封じています。 東門 西門 南門 北門 中国風建築が目を引く市民憩いの場 毎年春節祭に合わせて行われる、ランタンフェスティバルのメインイベント会場となる湊公園は、東側に中国産の御影石で高さ50センチの石畳舞台のほか、中国蘇州地方に残る伝統的建築様式の石造り表門(中国名牌楼)と裏門(同牌坊)さらにあずま屋(休憩所)が設けられています。